受賞作品展⽰ 作⽂部⾨
令和5年度(第60回)受賞作品

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全国連合小学校長会会長賞

僕の右手グローブ

群馬県 みどり市立笠懸小学校 5年

永盛 冬馬

 僕は現在、野球チームに入っています。平日や休日は野球の練習をしています。僕が野球を始めたときは一年生でした。初めて買ってもらった小さなグローブは、おばあちゃんが選んでくれたものでした。僕は野球がとても好きになりました。野球の練習がない日はおばあちゃんの家に行って、
「ばあちゃん!キャチボールをしよう。」
と言うと、
「いいよ!」
と言ってくれます。僕のへたくそなボールを、
「もっとこう投げるんだよ!」
と言っていつも教えてくれました。
 二年生になると、六年生の野球の大会でレフトに出ることが出きました。とても嬉しかったです。おばあちゃんは、僕がバッターボックスにたつときは、いつもバックネットの裏のすぐ近くで見てくれていました。
 そして四年生になりました。野球の練習中に整骨院の人が来てくれて僕の肘を簡単なエコーで見てくれました。整骨院の先生はとてもびっくりした顔でお母さんをすぐ呼んできてと言いました。お母さんは妹たちの面倒を見ていましたが走ってきました。
「肘が壊死しているかもしれません。」
整骨院の先生はそう言いました。
 僕もお母さんも周りのお母さんたちもびっくりしていました。その後、整骨院の先生がすぐに整形外科に行ったほうがいいと言いました。監督がこの病院の先生がいいかもしれないと言ってくれて、お父さんがすぐ調べてくれました。一週間後には整形外科の先生が見てくれることになりました。みんなが僕の肘の症状を聞いて心配して、たくさん声をかけてくれました。
 お父さんと病院に行くと、MRI、CTを撮りました。先生から右肘の軟骨がぐちゃぐちゃで骨の状態が悪いといわれました。そしてすぐ肘にギブスをはめることになりました。毎日時間があるときは家の壁で壁当てをしたり、常に僕の左手にはグローブ、右手にはボールが当たりまえの状態が、その日から当たり前ではなくなってしまいました。とにかく動かしてはいけない、全力で走ってもいけない、そんな日が始まってしまいました。ご飯を食べる時もギブスをはめなければいけないので、お母さんはスプーンを用意してくれました。服を着替えることも大変です。一月からギブスをはめることになり、二月は野球チームで駅伝大会に出ることになっていました。僕は長距離が得意で大会に出られる予定でした。でも走ってはいけないので、大会に出ることができませんでした。でも僕のチームは優勝しました。僕は応援を頑張りました。
 野球の大会も今までは六年生に混ざって試合に出ることができました。肘を故障してからは、ずっとベンチにいることになってしまいました。でも練習も練習試合も休むことなく行きました。監督が、
「今までケがをすると練習に来なくなってしまったり、辞めてしまったりする子がいたけど、ちゃんとかかさず練習にきて声をだして頑張っていて、こんな子は三十年監督をやっているけど初めてだよ。」
と言っていました。
 僕は野球が大好きです。試合に出られなくともみんなといることが楽しいです。試合に出られない時でも学べることはたくさんあります。そして半月がたち肘が少しずつよくなっていきました。右手が使えないから、左手で投げてみようと思い、たくさん家の壁に投げました。お母さんが僕の投げている姿を見て、中古のグローブなら買ってあげるよといってくれました。僕は四人兄弟の一番上です。本当は新品のグローブが欲しかったけど、お母さんの日頃の姿を見て中古でもいいよと言いました。
 でもなかなか右手のグローブが手に入りませんでした。おばあちゃんから電話がかかってきました。
「冬馬!足利にグローブを見に行くよ。」
と言ってくれました。
 僕の大好きなグローブ屋さんは足利にあります。おばあちゃんはいつもグローブ屋さんに連れて行ってくれます。その日は好きなグローブを選ばせてくれました。
 僕はすぐに右手にグローブをはめて、たくさんたくさんキャッチボールをしました。投げることが楽しいと心から思いました。野球の練習の時にみんなの前で左手で投げました。
「すごいね。冬馬。右手のグローブもかっこいいよ。」
「また一緒に大会に出られるね。」
とみんなが声をかけてくれました。とても嬉しかったです。
 僕は肘が故障する前のバッティングは右バッターでした。右肘を故障してからは左バッターにもなれるように練習をしました。バントもできるようになりました。大会ではまだ結果がでませんが、練習を頑張りたいと思います。僕が高校生になったら、おばあちゃん、おじいちゃんそして家族を甲子園に連れていくことが僕の夢です。

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